フランス博士留学記

クロワッサンうますぎるだろ。そしてクロワッサンという発音は100%伝わらないと思う。

僕は僕が日本人であることに気付いた。

僕は僕が日本人であることに気付いた。

 

最初に、これから話すことは文化的議論に終始するものであり、僕のいかなる政治的信条・立場を示すものではなく、また昨今の複雑な政治情勢とも全く無関係であることを述べておきたい。

 

今日はちょっと文化的な話をしよう。

いきなりだが、あなたは自分が日本人であると本当に気づいているだろうか。

気づいているとしたらそれはどういう点だろうか。なんでも醤油を使いたくなることだろうか?海外旅行をしてお茶や和食が恋しいと思ったときだろうか?

 

フランスに来る前、僕の海外経験はせいぜい13,4歳のときに海外旅行をした程度で、それも親にくっついて2週間ほどいわゆる観光地を周遊したぐらいであり、現地の人と深く交流するなどという機会はなかった。だから僕は特に何も感じなかった。せいぜいディズニーランドのような非日常感のある場所の延長に過ぎず、"ここは日本ではない"とか、"そうかおれは日本人なんだ"なんて実感も特になかった。若すぎたせいもあるかもしれない。

 

僕は大学時代の後半、英語の勉強をしたかったので留学生や在日外国人達と積極的に交流した。6人の英語ネイティブの集まりに日本人僕一人なんてこともあった。でも特に自分が日本人であることを意識することもなかった。彼らは"訪問者"であり僕らは単に"お迎えする側"だった。訪問者の国籍は意識していたかもしれないが、彼らがたくさんある国のどこか一つから来ていて、また同様に僕もその別の一つ日本出身なのだ、というような明確な認識はなかった。日本人であることはもはや大前提過ぎて、意識することすらなかったと思う。つまり、僕は僕が日本人であると言うことを知らなかった。

 

しかし日本を出、"外国人"としての生活を長くするとどうであろう、上述と逆のようなことが起こるのである。

すなわち、ほとんどの場合あなたは"◯◯さん"とは強く認識されないことに気づくのだ。よほど親しくなるか、よほど多くの日本人と交流している人以外はあなたを"あの◯◯さんっていう日本人"というふうに潜在的に認識しているはずである。もっと悪いと"あの日本人"、最も気にされていなければ"アジアのどっかからきたやつ"なこともありうる。つまり日本人であることは大きな個性になり、周りの人間はあなたを◯◯さん個人としてではなく、一日本人として認識するのである。また日本人のステレオタイプ(空手、柔道、すし、サムライ、アニメ)などがそのまま個人のキャラクターに勝手に反映されて周囲に認識されることも間々ある(これはちょっと迷惑な場合もあるが、お互い様なので仕方がない)。

とにかく、こうした状況下で日本人としてのアイディンティティに目覚めるのはある意味至極当然であると思う。

 

興味深い話を聞いたことがある。アフリカの一部地域では、違法にも関わらず割礼を未だ継承している地域があるそうだ。ヨーロッパにはそうした地域出身の人たちも暮らしている。一見そのような人たちはヨーロッパ的思想に影響され、割礼の根絶を望むのかと思われるが、むしろ故郷にいる人たちより強くそうした文化を存続さようとするらしい。

僕は日本にいた際にこの話を知り、その時はなぜだか全く理解できなかったが、留学11ヶ月を終えようとするいま、割礼の是非は別としてそういう心理が働くことは大いに理解できるようになった。

ここで参考までに、僕自身がどのような点で日本人としてのアイディンティティを確認したか、書き出してみよう。

 

・日本にいた時は正直それほど強い興味のなかった剣道を再開した。大げさかもしれないが、自国文化継承者の端くれであることを自覚するようになった。

・挨拶のお辞儀でさえも重要な文化の一つであることに気づいた。

・日本語における外来語の多さを憂うようになった。特にフランス語と比較するとその程度はまさに"英語に侵略されている"と言えるほどである。

・中学生のころはアルファベットで自分の名前を書いたりしてかっこいいと思った時期もあったが、いまは漢字やひらがなでかけることの方がずっと価値があると思っている。(理由は単純で漢字やひらがなというだけでフランス人の注目を浴びるからだ。)

 

この記事を読んでいる方の中には、僕がただの文化的右派・保守派であるように映るかもしれない。いかにも考えの古そうな人間に思えるかもしれない(離日前の僕もいまの僕の話を聞いたらきっとそう思ったはずだ)。

だがそう思う人にあえて不遜な言葉を送りたい、きっとあなたも海外に出たら同じように思うはずだと。短い旅行では気付かないかもしれない。"外国人"として扱われ、日本人という情報以外まわりに周知されない状況で現地の人々と交流し、生活する中でなければその意識が鮮明になる前に帰国となってしまうだろう。

 

しかし一方でこう思うこともある。

文化論じみた論理展開をしたものの実はもっと単純な話で、単にフランス人に喜ばれる日本人像(剣道をやっていると言ってみたり、漢字で書いてみたり)に自分を近づけようとしている、ただそれだけのことではないかと。もしそうだとすると、僕が発見した"日本人としてアイデンティティ"なんてものは所詮、外国で良く思われたいがためにステレオタイプ的な日本人を演じたいという見栄程度のものなのかもしれない。

そう思い始めたら結論がでなくなってしまったのでもう終わりにしようかな。

 

A bientôt!