なぜ他言語を学ばなければいけないのか〜その1〜
Bonjour à tous!
こんにちは!
はじめに
今日英語がますます普及し、一方では技術の進歩によりリアルタイム自動翻訳も夢ではなくなってきている昨今、他言語を学ぶ理由というのはあるのでしょうか。
ご存知の通りフランス人は非常にフランス語に高いプライドを持っており、世界一美しい言語と自負して止みません。だから英語は嫌いだしフランス語を学ぶ気のない人には冷たい。さすがに観光客にしゃべれとは言いませんが、半年以上滞在するならフランス語を学ぶ姿勢を見せたほうが無難です。「旅行に行ったけど英語で全く問題なかったよ」というあなた、金をくれる人に冷たくする人はいません。Bonjour(ボンジュール、こんにちは)、Merci(メルシー、ありがとう)程度も言ってない人は裏で「いくら観光客でもそれくらいフランス語で言えよ!」と思われている可能性もあります。
フランス語ほぼゼロの状態でフランスに行った僕としては、そこのところを死ぬほど実感しているわけです。あ、ちなみに研究は英語でしているので学業に支障はないですよ。一方日常生活は毎日修羅場ですが。
そんな状況を踏まえ、『なぜ他言語を学ばなければならないのか』と題し、第一回は言語と思考の関係に基づく異文化理解の点において、第二回は異文化への敬意、という観点に着目して議論を進めていきたいと思います。
言語は思考を支配する
言語というのは話者の思考を支配しているのではないでしょうか。
ちょっと例をあげて考えてみましょう。
日本語では特に第一人称、第二人称が主語述語になる場合ほとんど省略されたり、場合によっては「そちら」とか「こちら」のような場所・方向を指す言葉で「あなた」とか「わたし」を明言することを避けますね。外国人に日本語を教えるとき一番困るのが「あなた」なんですよね。日本語の教科書にはこれで書いてありますが、2人称でこれ使うのってカップル・夫婦か、上から物をいうときだけじゃないですかね、実際。ということは、敬語を使う相手に対する二人称が存在しないのか??じゃあ、お客様?あなた様?
2014/4/30追記
つまり二人称への言及をことごとく避けることで敬意を表している、あるいは距離を取っていると言えるのではないでしょうか。
一方でヨーロッパ言語は絶対省略されないですね。絶対youとかmeとかは無くならない。だから例えば、同席している外国人にもわかるようになどの理由で日本人の先生と英語で話すと、先生をyouって呼ぶことになる。私たち日本人にとってはなんか変というか、失礼な気がする。これこそ言語が思考を支配しているいい例じゃないでしょうか。
2014/4/30追記
イタリア語では主語の省略が可能とのご指摘をいただきましたので、全ヨーロッパ言語ではないですね。
また家族の呼び方について、日本では自分より上の構成員は父さん、姉さん、叔父さんとか、立場で言うじゃないですか。でも弟!、姪!とかは言わないですよね。
英・仏語では両親はDadとかPapaとか言うけど、兄弟間では平等に名前で呼び合っている。あと義理の両親とか叔父とかになるともう名前(呼び捨て)で呼んでいると思う。
呼び方に各文化における家族間での上下関係が現れるわけですね。面白い。
この辺の話は、下記の2冊に詳しく書いてあります。名著なので是非。
なお、僕は言語学を学んだことは一切ないので上記はあくまでも個人的見解です。言語学的に正しいのかは知りません。
それで、なんで他言語を学ばなければならないのか
リアルタイム翻訳が実現したら英語さえ学ばなくていい時代がくるって言われていますけど、結局はその翻訳結果を日本語で最終的には読むわけですから、究極的には上記のような、相手の言語にしか存在しない微妙なニュアンス・概念の違いとかはわかんないと思うんですよ。だから、例えば日本語を学んでいる人は敬語や主語の省略される場面を学ぶことで初めて、「ああ、日本人っていうのはこんな風にして人との距離感の取り方をするのか、うちの国とは全然違うな。」って本当にわかると思うんです。いつも自動翻訳でI, you, meって表示されてたら絶対そんなの気付かないじゃないですか。
もっと簡単に言えば、文学性の低い理系の論文はみんなに知らせるためにどんどん英語で書こうぜってなるけど、文学作品の翻訳が面倒だからこれから小説は英語で書こうぜとはならないじゃないですよね。特に詩とか俳句とかって本当に難しいと思う。やっぱり言語と思考なり感性なりは密接にリンクしているはずです。
まあでも、文学作品の理解とか上記のような異文化理解という目的以外では、人間がどんどん自動翻訳に仕事を奪われることになると思いますけどね。
ということで、フランス語を頑張って勉強します。
次回に続きます。
乞うご期待。
A bientôt!