旅ってなんの意味があるんだろうと思ってた話
Bonjour à tous.
こんにちは。
この前までずっと思ってたんですよね、旅って言うほど価値ないでしょって。
『旅しない奴は心が貧しくなる』とか『世界が狭い』という風潮があんまり好きじゃなかった。
僕は、他人が寝たり遊んだりしてる時に死ぬ気で努力して不可能なものを可能にしたり、何かを一心不乱に極めることで物事の本質・真理にたどり着くことにより価値があるって思ってました。
だから痛みを伴わない、行ってなにか見るだけの旅ってそんなに凄いことなの?って思ってたんですよ。ただ楽しいだけじゃんっていう。
あと、家で映画とか、歴史・哲学の本読む方がずっと価値があるんじゃないかと思ったんですよね。
だって旅行してきた人より世界史・地理好きな僕の方が知識あることがあったりしたので。世界を広げるなら家でもできるじゃんっていう。
もちろん、別に価値云々とかじゃなくストレス解消とか、価値あるものをやることだけが人生じゃないだろっていう意見があるのは知ってるし、それはそれでいい気もする。まあそこまで来ると、人生ってなんなんですかっていう難問に直面しますね。
でもフランスで短い間に爆発的に色々な経験をしたことで、旅行みたいな非日常的な経験をすることの価値がなんとなくわかってきたような気がしたんです。でもそれを言語化するまでには至らなかった。そのモヤモヤを特定できずにいた折、ある面白い本を見つけました。
すでに高い評価を得ているし、ネットでも有名なんでいまさら感があるかもしれません。
僕が激しく頷いたのが、IT技術の進化によって我々は常に自分に最適化された情報を大量に享受する反面、偶然の出会いによる新たな発見がなくなるのではないか、という著者の指摘ですね。
本屋で歩いていて、面白そうな本をなんの興味もなかったコーナーからたまたま発見した、ということはないでしょうか。あるいは、まったく音楽趣味の違う友達に押し付けられたCDが意外によく、そのジャンルを聴くになった、など。
著者はこれを、旅によって人生に偶然性という『ノイズ(p.11)』を入れると表現しています。ネットでは自分の検索ワードから自動で類推されたものが凄まじく高い精度で提示されますね。そんなところではこうした偶然の出会いは難しい。
これですね、これ。いやースッキリしました。
外国にいるとこうした『ノイズ』が否応無く入ってきます。もう新しい発見が多すぎて逆になにも驚かない、全てが新しいのでその一つ一つがもはや目立たない、そのくらいノイズで埋め尽くされています。
もちろん、日本国内でも自ら様々な境遇の人と話しをする、とかでも十分可能だと思います。外国は、その"様々"の程度がより激しくなるのがいいのかもしれません。確かにノイズを入れる効率は、旅は家で本を読むそれと比較すると相当高いですね。
と、まとまったところで綺麗に終わらせようかと思いましたが、
でもやっぱり僕は死ぬ気で努力して不可能なものを可能にしたり、何かを一心不乱に極めることにより高い価値があると思うんですよね。
確かに旅によって視野は広がりますが、それはあくまで手段で、ではその広がった視野でなにするのか、という方が大事な気がします。結局旅は生産にものすごく近い消費、あるいはアウトプットに大きな影響を持つインプットではないかと。いずれにしろ生み出す工程が常にあるべきだと思います。でも、なぜかはわかりません。なにかを消費して楽しいだけの人生がいけないという理由はどこにもありません。
参考にもう一点。
感受性の磨き方について、村上春樹氏が興味深い回答をしていました。
『痛い思いをして、身体で覚えていくしかない』
『気持ちよく生きて、美しいものだけを見ていても、感受性は身につかない』
やっぱり痛み・苦労の伴なうことこそ価値があるんじゃないかな。
僕は感受性に乏しいと言われる人間なので、そもそもこのやり取りすら正確に理解しているかやや心配ですが。
おわり
A bientôt!